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1 || NPT再検討会議要請壮行会 及び 被爆体験を聞く会

2010.3.24(水) 【高知医療生協】


小雨が降り続く、 3月24日、高知医療生協にてNTP(核不拡散条約)再検討会議壮行会が行われるということで、カメラをぶら下げお邪魔して来ました。

被爆体験を語ってくださった語り部の永野さん
被爆体験を語ってくださった語り部の永野さん

彼末副理事長の御挨拶のあと、学習会として原爆被爆者の語り部をされている永野初枝さんのお話を伺う事が出来ました。 

永野さんは現在84歳で19歳の時広島で被爆し、終戦後ご主人の故郷高知へ移住されたそうです。 

  昭和20年8月6日空に雲ひとつない晴天の日、2度目の警戒警報が解除され防空壕から家に帰ったとき原爆が落ちたそうです。家の中だったけれど壁を通しピカっと光り、目も開けられないくらい空気が濁ったとのこと。柱、建物が崩れ、テーブルにあったお盆は爆風により天井の桟に引っかかっていたとおっしゃっていました。

  それまで小榴弾の1発も落ちていなっかった きれいな広島は、ビルが倒壊し めらめら燃える死体の山、くすぶる黒い物体、背丈より高い煙、街のきれいな川は柳の木も燃え、男女別も分からない皮がずりこけた死体でいっぱいで水かさが増していたと言います。2~3時間後、死んだ赤ちゃんを抱っこした若い女性や火傷で皮を垂らした人たちがずらずらと街の方へ避難してきたそうですがその後のことはわからないと永野さんは辛そうにおっしゃっていました。それから黒い雨が降り、外傷のない人も、髪が抜け、歯茎から血が出て亡くなっていったそうです。

  ご無事の不明だったご主人が1週間後に見つかり、終戦後高知へ移住しましたが、妊娠中だった永野さんは心配が尽きなかったようです。めまいやつわりがひどく流産も何度かしかかったと言います。生まれた男の子は1.4キロと小さく体も弱かったそうで小学校も1年遅らしたそうですが、後に自動車会社に就職し、お子さんも3人いらっしゃるそうです。

 ご主人をはじめ、永野さん、ご長男、ご長女ともに体が弱く病気がちでご苦労も多く、「いつも死を目の前に必死に生きてきた」とおっしゃっていました。53年後にして、ご主人の頭の中にガラスの破片が見つかり長年の頭痛の原因が判明したということもあったそうです。

 永野さんは長年被爆者であることを隠していて、23歳になった娘さんが結婚するとき初めて告白したとおっしゃっていました。そして、永野さんが年齢を重ね、身体が弱くなり、「自分が死んだら戦争のことを語れない」と、語り部になられたそうです。

「今は、孫、ひ孫の健康を祈りながら生きている」とのこと。

最後に 『戦争反対、核兵器反対  ノーモアヒロシマ!! ノーモアナガサキ!!』と力強くおっしゃっていました。

 

  永野さんのお話を聞いていた方の中にも、終戦を迎えたのが小学3年生だったが勉強どころではなかったとおっしゃる方や、軍人だったお父様から話を聞いたことはないが毎年8月16日には仏壇に手を合わしていただとか、母親と妹が防空壕で蒸し焼きになり亡くなったことを定年までお父様が話さなかったというお話を伺うことが出来ました。

  戦争はテレビの中や外国だけのことではないんですよね。・・・と改めて思い知らされました。被爆時まだ10代だった永野さん。はじめての出産を控え、どんなに不安で辛い思いをされたことでしょう。何の罪もない人々を容赦なく一瞬で地獄に突き落とす核兵器がこの世にあって良いはずがありません。

決意表明する明坂さん(左)と今津さん
決意表明する明坂さん(左)と今津さん

次に5月にニューヨークで行われるNTP再検討会議に高知医療生協から、理事の今津さんと外来看護部所属の明坂さんが代表派遣されるということで、お二人から決意表明がありました。

  署名目標も達成されたそうで、皆さん快く署名やカンパをして下さったとおっしゃっていました。

5月1日に出発し7泊6日の滞在だそう、どうぞお気を付けて! 

まだまだカンパ受付中だそうです!!

   

恥ずかしながら 『NPT再検討会議』 とは何ぞやと思いつつ参加させてもらった壮行会でしたが、永野さんのお話も伺え貴重な体験をさせて頂きました。

帰ってからネットでいろいろ調べ少しはわかってきたかなという感じです。

5年前にも、流れていたであろうに気にも留めていなかった『NPT再検討会議』のニュースを、今年は食い入るようにみたいと思います。

2010.3.26 (F)